FC2 トラックバックテーマ:「肌身離さず持っているもの」もともと、かっぷくのよかった山下だが、8カ月近い山中の戦いで、着ていた
軍服が、ダボダボになるほど痩せ細っていた。
持っていたのは、身の回りの僅かなものだけ。
財宝はおろか、食料すら無かった。 ところが… 1946年2月。
山下とマル福金貨のつながりを示す、逸話が生まれていた。
マニラの軍事法廷で、戦争犯罪者として死刑判決を受けた山下は、守衛係の
アメリカ軍ケンワージー憲兵中佐に、世話になったお礼に形見分けを行った。
山下は、1枚のマル福金貨を手渡し、こう伝えたという。
この福という文字は、幸福をあらわします。 幸福を呼ぶ金貨です。
東京で長年、古銭店を営む男性は、このように日本兵からアメリカ兵に渡った
マル福金貨も、山下財宝伝説の一部を形づくったのではないかと推測して
いる。
“捕虜収容所… 日本の兵隊が敗戦で、収容所に入れられて…”
“その時に、日本軍の軍人が、金貨を襟の中に、縫って隠していたらしい…”
“そういったものが、ポロポロ…”
“色んな所から出て来たので、アメリカ軍の軍人がコインを持って本国に帰った”
“財宝というと、金額が、とてつもない大きい… 100億とかになるが…”
“あくまでもマル福金貨は、軍事物資を買うための資金だった…”
“それを、財宝と呼んだのだと思いますね…”
日本側の資料から推測できる、山下財宝。
それは、日本軍がフィリピンに持ち込んだマル福金貨が、さまざまな人の目に
留まり、伝説の一端を形作ったもの… と、言えそうだ。
Q: 山下財宝 = マル福金貨なのか? そうじゃないのか?
この伝説を、どう、ご覧になりましたか?
当時、フィリピンは、日本軍が占領をして、ラウレル大統領と、フィリピンの
大統領… 共和国はあったのですが…。
実質的には、日本の軍政が、ひかれていました。
そうすると、軍とはいえ、それなりに経営をしなければいけないので、それ
なりの財政は必要である。
そうすると、何らかの… 金貨などの財源が、日本から持ち出されたのは、
あり得るでしょう。
戦後になって、あるいは戦争末期、日本軍が逃亡する時に何らか、日本軍の
一部が、それを持って食料と交換したとか。
あるいは、捕虜になった時に、タバコと交換したという証言が、いくつかあり
ますので、ポロポロと、その金貨が出てはいる。
そこがやはり、金貨の話しが、どんどん広がって行く1つの要因ではないか?
と言う風に思います。
今、おっしゃったような形で残ったものがあるとして、それがヤマシタ・トレジャーの
一部になっている可能性は否めないと思っています。
我々のハンター仲間が1人、フィリピンに通ってた、ある時期…うわ言のように
マル福、マル福と、言っていた時期がありました。
何か、現物を現地で見たのか? 何か、証拠をつかんだのか?
今から30年以上前に、そういう時が、ありましたね…。
Q: 信じてしまいがちなものは、どういうところにありました? 今。
敗れ去った日本に対する、あわれみの気持ちが、そういう伝説を生んだ。
そういう事も、あるのではないかと思います。
というのは、日本の埋蔵金伝説に多いパターンが、戦いに敗れた武将の再興
資金なのです。
戦いに敗れた人が、いずれ再起をするために隠しておいたに違いないと、
それに通じるものがフィリピン、山下財宝にもあるような気もしないでもない。
Q: この伝説というか、信憑性について、どう捉えますか?
戦争末期に、東南アジアで集められた財宝が、フィリピンに運ばれたという
話しが多いのですが、決戦の場に、それだけの財産を運び込むか?
しかも、勝率の高くないところに運び込むかというと、合理的に考えて、あまり
ないと思います。
山下将軍が1944年に、第14方面軍司令官として行った時点では、日本軍は
相当、形勢不利なのです。
ルソン島北部の方で決戦をという事なのですが、実質的に逃走に近い形。
そうしますと、全部の兵器だとか、兵備を持って行くわけにはいかないので、
その場合には、出来るだけ敵に渡らないように埋めろという指令もあった。
それで、何を埋めているか分からないと、想像力が働く。
よって、後になって、話しが膨らむという種にはなっていくのだと思います。
私は、千両箱を持った事があるのですが、重たいですよ。 金というものは!
ですから、もう、食料もない、水もない、それから体力も消耗している時に、
あんな重たいものを山の上まで運ぶという事は、やめてくれ!と言いたくなる
と思うのです。 やっぱり、埋めたくなりますよ。 末端の兵士たちは。