第2121回「去年の今頃は何をしていましたか?」1913年、帝政ロシアを治めるロマノフ王朝の治世300年を祝う式典が行われた。
ヨーロッパ屈指の財力を誇ったロマノフ家が、その威信をかけた華やかな
セレモニー。
詰めかけた人々の目当ては、美貌の誉れ高い、4人の皇女たちだった。
それぞれの頭文字を取って、ロマノフ家の4人の皇女=OTMAと呼ばれ、その
一挙手一投足が世界中に報道されていた。
長女オリガ17歳。 次女タチアナ15歳。 三女マリア13歳。 そして、四女の
アナスタシア11歳。 この4人の頭文字を取って、 OTMA 。
ロマノフ家の侍女の手記 より。
“オリガ様は、繊細なお顔立ちが、お父上によく似ていらっしゃいました”
“タチアナ様はお母様に生き写し、アナスタシア様は非常に賢くて、本当に
いたずら好きなお子様でいらっしゃいました”
“当時、人々は、心から皇帝一家の皆様を愛していました”
しかし彼女たちは、この5年後、愛されていた国民の手によって処刑される事
になる。 1914年7月、第1次世界大戦が勃発。
動員された兵士は、5000万人に上った。
女性たちの暮らしにも、大きな変化が訪れた。
戦場に向かった男たちの代わりに、女性が働きに出る必要に迫られたのだ。
それまで男にしか出来ないと考えられていた仕事も女性が担うようになった。
フランスでは、女性の電車運転士が登場した。
男性より、事故を起こす事が少なかったという記録が残っている。
当時の欧米を視察した日本人の学者が、働く女性たちの様子を、驚きとともに
書き記している。
欧州交戦国に於ける食糧問題 より。
“電車の車掌も、御者も、郵便配達も、宿屋でも、何もかも皆、女が行なって
いる”
“高いところもハシゴに登って、妙なハカマのようなものをはいたまま仕事を
していると、男が下からのぞく”
女性たちの活躍が始まったパリでは、新たなファッションが登場した。
ファッション・デザイナーのココ・シャネル。
コルセットで縛る女性服の常識を壊し、スポーティーなデザインでファッション
に革命を起こした。
デザインに細かな注文を出すシャネル。 肉声も記録されていた。
“上着を羽織ってみて… 首の後ろのラインをもっと下げて…”
“デコルテは、ここで終わるようにして、動かないように…”
シャネルは、孤児院で育った。 その環境が、並外れた野心を育み、やがて
4000人の社員を抱える大企業を築き上げる。
そして、新しい時代のカリスマとして、女性たちの憧れの存在となって行く。
シャネル 人生を語る より。 “私は、女の体を解放してやったの”
“レースやコルセットや下着や詰め物で着飾って、汗をかいていた体を自由に
してやったのよ。 活動的な女には、楽な服が必要なのよ”
“袖をまくれるようでなきゃダメ! 美しさは弱々しさとは違う”
戦争の長期化によって、女性たちの役割は、ますます重要となって行く。
多くの女性たちが、軍需工場で働いた。
イギリスでは、開戦時には17万人だった女性労働者が、最終的には100万人
にまで膨らんだ。
職場での貢献度が増す中で、次第に女性の発言力が高まって行く。
女性たちの要望を受けて、食堂をはじめ女性専用トイレや更衣室が作られる
など、環境の整備が進んだ。
更に、軍需工場で働く母親が、子供を預ける保育園も出来た。
イギリスでは、政府が特別に予算を割き、軍需工場の従業員専用の保育園を
100カ所以上、開園した。
戦争によって、女性の権利は、徐々に拡大して行った。
しかし一方で、課せられる労働は、過酷さを増して行く。
軍需工場では、爆薬も扱うようになる。
時には不安定なブランコに乗って飛行船を組み立てる作業にも駆り出された。
女性労働者の証言 より。
“軍需工場の仕事がもとで、病気になった若い子がいたわ”
“金属の粉を大量に吸い込み、のどの奥まで焼き尽くされて、苦しみながら
死んでいった… まだ19歳だった”
男性労働者の証言 より。
“女たちは死に物狂いで働き、来る日も、来る日も、弾丸を量産し続けた”
“軍需工場の経営者は、女は、いくらでも代わりがいると、ウソぶいた”
“だが本当は、女たちの働きがなければ、戦争は負けていた”
そして女性たちは、戦地にまで駆り出されるようになる。
これは夫を戦争で失ったロシアの未亡人たちが志願して出来た部隊である。
イギリスでは、武器を輸送するトラックの運転手や通信兵として、女性たちが
戦争に加わった。 1917年、女性たちの叫びをキッカケに、歴史が大きく動く。
この年、ロシアは厳しい寒さに覆われ、深刻な食糧難に陥った。
人々の不満は、ロマノフ家に向けられていった。
2月、首都ペトログラードの街路がニコライ2世の退位を求める9万人の市民で
あふれ返った。 ロシア2月革命である。
発端になったのは、食料を求める女性たちのデモだった。