第2121回「去年の今頃は何をしていましたか?」1954年。 日本は、1人の女性の来日に沸いた。
ハリウッドスターのマリリン・モンロー。
20世紀のセックスシンボルが、新婚旅行に選んだのは、日本だった。
日本中のマスコミは伝説的メジャーリーガーであった夫のジョージ・ディマジオに
目もくれず、モンローを追い回した。
“バルコニーから投げキッスするモンローを、やっとの思いで眺めながら、ただ
うっとりと、もみ合っていました”
しかしモンローは、アメリカ軍から、ある指令を帯びていた。
そして、夫を置いて日本を抜け出す。 向かった先は、韓国。
朝鮮戦争を戦う、アメリカ軍兵士の慰問に訪れたのだ。
10万の兵士が、突如、現れたモンローに熱狂した。
肌をあらわにした衣装で、男たちを魅了するモンロー。
しかし映像をよく見ると、彼女の息は白く染まり、ミゾレもちらついている。
兵士たちも、分厚いジャンパーを着込んでいる。
実は、この時、韓国は極寒の真冬だった。
10カ所でコンサートを行ったモンローは、風邪をひく。
しかしステージでは、みじんも、それを感じさせなかった。
マリリン・モンローの自伝 より。
“私は、自分が世界中の大衆のものである事を知っていた”
“それは、私が才能や美貌に恵まれているからではなく、大衆以外のどんな
ものにも、どんな人にも、属した事などなかったから…”
映像が誕生してから100年余り。
カメラは、激動の時代を生きる女性たちを記録して来た。
ファッションデザイナーのココ・シャネルはコルセットで縛られていた女性達の
体を解放した。 ある者は、銃を取って男たちと戦った。
ある者は、独裁者の傍らで、世界の地獄を見た。
ある者は、超大国の支配に、無言で抗議した。
歴史の激動の裏側には、いつも、女性たちがいた。
自由を求め、愛を貫き、誇りをかけて戦った、無数の女性たち。
男たちが動かす世界に、輝きを放った。
激動の時代を生きた女性たち。
世界に立ち向かった女性たちの悲しく、誇り高い物語である。
この番組は、世界106カ国に配信された。
しかしケネディとジャクリーンの間には1人の女性が大きな影を落としていた。
“大統領、遅刻して来たマリリン・モンローです”
これは、ホワイトハウスの番組が放送された3カ月後、ケネディの誕生日
パーティーの映像である。 モンローは、ケネディの愛人だったといわれる。
ジャクリーンは、このパーティーを欠席した。
モンローに祝福されたケネディは、もう政界から引退してもいいと、上機嫌で
語った。
一方、社会主義のソビエトでは、女性たちの暮らしも、大きく異なっていた。
働く女性は、社会主義の理想を遂行する存在として、称賛された。
男女の賃金格差も、撤廃された。 国家的ヒロインも誕生した。
史上初の女性宇宙飛行士 ワレンチナ・テレシコワ 。
彼女が宇宙飛行に飛び立つ時の、貴重な映像が残されている。
(1963年6月16日 ボストーク6号 打ち上げ)
ボストーク6号に乗ったテレシコワは、70時間50分をかけて地球を48周した。
飛行中、彼女は、フルシチョフ(ソビエト最高指導者)と会話している。
コードネーム、カモメは、人々の記憶に刻まれた。
“こちらカモメ。 全て問題なし!、今、周回軌道を修正したところよ!”
“♪ラララ~ 聞いて、あなたたちの大好きな歌よ!”
3日後、地球に帰還。 大群衆が彼女を出迎えた。
テレシコワの偉業は、男女平等を掲げる、社会主義のプロパガンダとなった。
その後、共産党の最高幹部の1人となった。
テレシコワの自伝 より。
“宇宙に飛ぶ幸福な女性は、一体、誰だろう?”
“私たちは、川辺で水浴びをしながら考えたものでした”
“国民と共産党が無限の空間におもむく女性第1号として、私を指名してくれた
事を誇りに思います”
“目的に向かって努力をすれば、大胆な空想でも、必ず実現するのです”
東西冷戦の緊張が高まっていた1960年。 日本は、安保闘争に揺れていた。
1960年6月15日、4000人の学生が国会に乱入し、警察隊と激突。
流血の惨事となった。 この混乱の中で、1人の女子学生が命を落とす。
樺 美智子さん。 東大文学部に通う、学生運動家だった。
22歳の女子学生の死は、日本社会に大きな衝撃を与えた。
樺さんの死を、権力による弾圧と捉えた学生たちの行動は激化。
以後、彼女は、長きにわたり、学生運動のシンボルとなる。
同じ頃、アメリカで1人の女性研究者が、世界を動かす一冊の本を出す。
レイチェル・カーソン。 生物学者として政府機関に勤めながら、作家活動を
行っていた。
1962年ガン宣告を受けた闘病生活の中で書き上げたのが沈黙の春である。
環境破壊を、初めて正面から取り上げたこの本は、僅か半年で50万部を超す
ベストセラーとなった。
沈黙の春 より。 “20世紀になって、人間というひとつの種が、絶大な力を
身に付けて、自然を改造しようとしている”
“土・水・野生生物、更に人間への影響をほとんど調べもしないで化学製品を
使わせたのである。 未来の子供たちが、私たちを許さないだろう”
“全ての生命を支える自然界を、守ろうとしなかったのだから…”
農薬・DDTなどの合成化学物質の危険性を告発するカーソンの訴えは、製薬
会社などから猛烈な反発を受ける。
“レイチェル・カーソン女史の沈黙の春の主張は、事実を大きくねじ曲げています”
“科学的な裏付けもないし、どうせ現地調査だって行っていないでしょう”
“カーソン女史の言う通りにすれば、中世の暗黒の時代に逆戻りです”
しかしカーソンは動じる事なく、テレビ番組などを通して反論を展開した。
“警告を発するには、1つの例だけで十分だと思います”
“化学製品を正しく管理しなければ、間違いなく、悲惨な結果を招くでしょう”
カーソンの主張は、ついに、(ケネディ)大統領をも動かす。
Q: DDTなどの農薬には、長期的で危険な副作用の可能性があると指摘され
ています。 農務省などに指示を出していますか?
“ええ。 すでに調査中です。 カーソン女史の出版もありましたから…”
1972年、DDTの使用は禁止される事になる。
しかしカーソンは、それを見届ける事はなかった。
沈黙の春 出版の2年後に、この世を去った。
1962年8月。 1つのニュースが全米を駆け巡った。 モンロー遺体で発見。
“調査によれば、マリリン・モンローは、引退と死を、ほのめかしていた事が
判明。 全てを踏まえ、本件を自殺と推定する”
1962年8月8日。 マリリン・モンローの葬儀。 36歳だった。
葬儀は、元夫のジョー・ディマジオが取り仕切った。
参列者は親族や友人など、僅か31人だった。
ケネディとの不倫疑惑が世間で騒がれていた中での、突然の死。
その死因は、今も、謎に包まれている。 そして、そのケネディを悲劇が襲う。