第2121回「去年の今頃は何をしていましたか?」ここが生まれ育った通りで、この辺りの家は、全て親戚です。
妙な話しですが、ほとんどの家に住んでいました。
あそこの部屋では、初めてスピノザを学びました。
2週間、閉じこもって、エチカを、ずっと読んでいました。
Q: 何歳の頃ですか? A: 16歳です。
あそこは、初めて哲学書を読み始めた部屋です。
1番左側の部屋で、14歳の頃にカントやキルケゴール・ヘーゲルにショーペン
ハウアーを読みました。 全て、あの部屋です。 これが私の通学路でした。
子供の頃、通学路を歩きながら、哲学をしていました。
行ったり来たりしながらね。
私が、最初の2つの哲学的発見をした場所を、お見せします。
それが私の人生を決めました。 あの街灯を見て下さい。
私が6歳の時、ここが通学路でした。
ある日、登校していた時、小雨が降り出して、雨粒が右目に入りました。
視線は、こんな感じでしょうか…。
眼球を押した時のような、単純な光学現象が起きました。
今、私が、あなたを見ているように、イメージが2重になったのです。
ある疑問が浮かびました。
今は街灯が2本に見えるのに、どうして1本だと思うのだろう?
もし、いつも2本に見えていたら、僕は街灯を2本だと思うのか?
それとも、1本だと思うのだろうか? こうも考えられます。
私と、あなたが見る街灯。 反対側から見る街灯は違いますよね。
では、街灯の本当のイメージは、どこにあるのでしょうか?
長年を経て、たどり着いた答えが、意味の場の存在論です。
答えは変わる事もありますが、ここ10年、変えていない答えが、イメージは
ここにある です。
気鋭の哲学者が提唱する新実在論のキーコンセプト、意味の場。
現実のあらゆる存在は、常に意味と共にある。
人々の感覚が生み出す意味と離れては何1つ存在する事はないというのだ。
ラッセルやベルクソンという哲学者も、似た発想を持っていましたが、それら
とは別の思想です。
このように動き回っても、対象は、あくまでも同じに見えます。
増えているのは、物ではなく、イメージなのです。 なぜでしょう?
物質は1つでも、イメージは複数に増えうる。
この現実において当たり前にも思える、この事が、一体、何を意味するのか?
イメージしか持っていない私には、対象が本当に存在するかは分かりません。
では、全てのイメージが同じ対象を表していると、なぜ分かるのでしょう?
イメージを結び付けるものこそが、対象だからです。
これが、意味の場の存在論です。
つまり、イメージの場があって、そこには、いわば、引力があるという考え方
です。 ものを引き付ける、何らかの力の比喩です。
イメージ同士を結び付ける力が、対象なのです。
対象は、イメージの外にあるわけではありません。 対象とは、力なのです。
こう考えると、世界という実在は、消えて行きます。
2つ目の思考実験が、下校中に始まりました。
その時、さっきまでは学校にいた自分が、今は、ここにいて、お昼時には家に
いるという事に気付きました。 では、過去は、どこへ行ったのだろう?
私が家にいる未来は? これらは、どう、つながっているのだろう?
こう考えました。 未来の予想と、過去の記憶は、どちらも、つながっていて、
現在、起きているのだと。 しかし、それが正しいはずはありません。
なぜなら、過去は過去にあって現在にはなく、未来は未来にあって現在には
ないからです。 何年もかかりましたが、私は、こう結論づけました。
それぞれのシーンは、結び付いていないのだと。
過去は現在とも未来とも、完全に切り離されていて、それらを結び付ける法則
などは、存在しないのです。
自然の法則は、過去・現在・未来を、結び付けません。
私が、今、話している言葉は、このシーンを撮影し始めた時の言葉と、どう、
つながっているのでしょう? 物理学では、その答えは出ません。
ですから、自然の法則が、ものを結び付けるのではありません。
後に、私は、世界は存在しないという結論に至ります。
つまり、現実は、相互につながっていない。
ある実在は、独立した断片で構成され、断片同士が、時に、重なり合っている
という事です。 意味の場が捉える現実は、絶えず変化に開かれている。
多くの自然科学が前提としている固定的な物質や、直線的な時間も、1つの
錯覚なのだという。 意味の場の存在論を、人間に当てはめてみましょう。
この対象は、誰でしょう? 私の見え方は、たくさんあります。
若い頃の私。 10分前の私。 2時間後の私。 この私は、誰でしょう?
私たちは、自分たちを別々の個人だと、よく考えます。
でも、自分とは、誰でしょう?
個人主義は、個人のアイデンティティーの幻想に基づいています。
私たちは、次の事を理解する必要があります。
私たちが、市場の利害関係や消費者行動などに支配される個人だという考え
方は、消費資本主義のイデオロギーによって作り出され、押し付けられたもの
です。 このような個人は、存在すらしません。 幻想です。
そのような意味のアイデンティティーは、持っていないのです。
私たちは、変化する複雑なプロセスです。
10年後の私のアイデンティティー? そんなものは、分かりません。
私たちは、個人として存在していません。
非常に複雑なプロセスと現実のネットワークで、他者と重なり合っているのです。
人間は、ある意味、ミツバチのようなものです。
私たちは共にあり、道徳的に結び付いているのです。
唯一の個人という概念さえ、市場の物語の上で作られた幻想なのかも知れ
ない。
錯覚を認識する事で初めて人は自由になり現実への1歩を踏み出せるのか。
新実在論では、プロパガンダやイデオロギー・幻想・妄想・偽りなどから、独立
した実在の形があると考えます。
つまり意味の場としてリアルな関係性は既にあり、発見されるのを待っている
のです。 そして私たちは、ただの傍観者ではなく、その一部なのです。
現実の外側にある現実というのは、存在しません。
この意味に気付けば、私たちは、皆、一緒にいるのだという事を、理解できる
と思います。
新しく書いた本の中で、言葉遊びをしたのですが、ドイツ語で現実を意味する
言葉には、私たちという言葉が入っています。
つまり、私たちをつなげているのは、現実そのもので、私たちは、現実から
逃れられないのです。
コロナで世界が犯した最大のミスは、国境を閉鎖してしまった事です。
国境を開かなくてはいけません。