第2121回「去年の今頃は何をしていましたか?」自由とは、好きなように、思い通りに行動する事ではない。
自由とは、誰かに命令される事なく、自らの意志で、自らを律して生きる事だ。
(近代哲学の祖 イマヌエル・カント (1722~1804) )
ボン大学(ドイツ)の教授は、世界が注目する、気鋭の哲学者だ。
ドイツ・ボン。 西ドイツ時代の旧首都が、教授のホームタウンだ。
ここで、哲学者による時代の診断が始まる。
新型コロナウイルスで世界が揺れた、この春、彼は、地元の新聞に、こんな
言葉を寄せた。
“私たちには、新しいグローバルな啓蒙(けいもう)の理念が必要なのだ”
“私たちを分断する精神の毒に、ワクチンを打たねばならない”
現在、目の当たりにしているのは、いわゆる新自由主義の終焉です。
デジタル革命を加速させるべきという考え方に、心から異議を唱えます。
新たなウイルスの出現。
それが引き起こした、人類が経験した事のない規模のパンデミック。
今も、不透明感は消える事がない。 マスクの着用を巡って衝突する人々。
待ち望まれるワクチン開発の裏で、国家の覇権争いが見え隠れする。
見えない存在への不安・恐怖が、社会を、私たちを分断しようとしている。
今、考えるべきは…?
ボンは、ベートーベンの出生地で、今聞こえるのが、交響曲第5番です。
ホームレスの方が、あそこにいますよね。
そして、スピーカーが設置されています。
無実の彼らは、ベートーベンの曲が、邪魔で眠れないのです。
皮肉な事に、ベートーベンが、この街の武器となってしまっています。
このパンデミックは、歴史的な瞬間です。完全に、革命期にいると思います。
このウイルスが、私たちに残された、最後のチャンスだと思います。
危機の時こそ、決断の時です。 最終的には、善か悪かの決断です。
このまま悪の道を進み続けるのか?
または一緒に、道徳的進歩に向かって進み、道徳的に良い事をして行くか?
私たちは人類全体として、この選択を迫られています。
これが、私が最後のチャンスと言う意味です。
コロナの前の私たちを、思い出して下さい。
あの目まぐるしさ、民主主義の終えん、気候変動など。
あの頃に戻ったら、終わりです。
だからこそ私たちはこのパンデミックに、これほど大きなショックを受けている
のです。 私たち誰もが、危機を感じていたからです。
それが、ショック反応の原因です。
以前のHIVのパンデミックは、ある意味コロナよりもひどいもので、感染者数は
累計で3800万人にも上ります。 でもそれは、人類を変えたでしょうか?
今、私たち全員が、ショック状態に陥っています。
それは、ウイルスの存在では説明がつきません。
ウイルスの呼びかけによって、引き起こされたのです。
私は、これを、形而上学的なパンデミックと呼んでいます。
人類は皆、自分たちが間違った道を進んでいる事を、無意識に知っているの
です。
ですから問題は、ウイルスからの呼びかけに、私たちは、どう応えるのかと
いう事です。 パンデミックは、私たちを、認識の眠りから呼び起こした。
束の間の目覚めの中で、思考の倫理の新たな歩みを進められるのか?
それとも既に、元の道に戻っているのか?
いずれにせよ、私たちに残された時間は、そう多くはないのかも知れない。
私が、よく引用する哲学者ガダマーの、素晴らしい言葉があります。
“相手が正しい可能性はある” (ハンス=ゲオルク・ガダマー/1900-2002)
これは、実にシンプルな倫理の原則です。
相手が正しいでも、自分が間違っているでもありません。
ただ単に、相手の視点を、感情も含めて考慮する必要があるという事です。
それでも、あなたが100%正しければ、相手に反発を覚えるかも知れません。
でも大切なのは、相手の視点から、どう見えているかを知る事なのです。
他者の視点を取り入れる事で、自分の視野を広げる事ができます。
それが倫理的な進歩につながるのです。
私がお話しした街灯の事を、思い出して下さい。
もし現実が、本質的に、多様な見方ができるのだとしたら、どういう見方が
あるのか? 学ばなければなりません。
人の数だけ、いや、無数に存在しうる、ものの見方。
私たちは、どこまで他者の眼差しに、そして他者の言葉に、想像力を持てるの
だろうか? 先が見えない不安に負ける事なく、耳を澄まして…。
(取材中にサイレンが鳴る) すぐに鳴りやみますよ。
この緊急事態に、今は、こんな警報が必要なのかも知れませんね。
火事や爆発の警報が鳴り響く、その中心に、私たちがいまいす。
そして私たちは、人間の自由に対する攻撃への真っ只中にいる事も、確か
なのです。 この危機を知らせる音が、あなたには聞こえていますか?
哲学は教えられない。 哲学する事しか、教えられないのだ。 (カント)