FC2 トラックバックテーマ:「今使っているスマートフォンケースについて教えて!」チューリングの偉業は、戦後もずっと、世間に知られないままとなった。
それどころか、事実とは正反対の不当な評価を受けて行く。
チューリングをコンピューター科学の視点で研究する科学哲学者は、言う。
“暗号解読に従事した人たちは、戦地に赴く事は、ありませんでした”
“そのため、兵役逃れというレッテルを貼られました”
“戦争に何も貢献していない人たちだと、思われていたのです”
“圧倒的に重要な仕事をし、戦争における中心的な役割を担っていたにも
かかわらず、その事を、誰かに告げる事は許されませんでした”
“両親や家族にも、知らせる事ができなかったのです”
チューリングが、本来、進めたかったコンピューターの研究は、止まったまま。
世界で初めて、ソフトウェアの概念を打ち立てた論文を発表して、8年余りが
経っていた。
1945年6月。 ナチス・ドイツの降伏から間もなく、チューリングのもとを、ある
男が訪ねて来た。
イギリス国立物理学研究所の数学部門のトップ、ジョン・ウォームスリーだ。
ウォームスリーは、チューリングが8年前に発表した論文を読んで以来、その
才能を高く評価していた。
そして、コンピューターを作るチャンスを提供すると申し出たのだ。
ついに、長年の夢を叶えられる。
チューリングは、友人に、こう宣言したという。 ‘脳を作るぞ’
1946年。 チューリングは、世界で初めてのコンピューターを設計。
エースと名付けられた。
設計の基本思想は、ハードウェアを、なるべくシンプルにして、その分を高度な
プログラムで補うというもの。
当時、最先端の電子工学を駆使して、超高速の演算処理を可能としていた。
新聞には、エースをたたえる、見出しが躍った。
‘エースは最速の頭脳’ ‘1カ月の仕事を1分で’
‘新しい頭脳は、どんな問題にも答えられる’
ところが、実際に作り上げる段階で、開発は難航する。
戦争で破壊されたインフラの復興に、技術者たちの手が取られ、夢のような
計画には、人手をまわせない現実があった。
チューリングの設計思想にも、批判が集まる。
理解しがたい難しいプログラムに頼らずハードウェアを大きくすればよいという
指摘だった。
チューリングをコンピューター科学の視点で研究する科学哲学者は、言う。
“チューリングの本当の経歴を、誰も知りませんでした”
“単に、優秀な数学者という程度で、それ以上の評価は、ありませんでした”
“もし、チューリングの戦時中の功績が知られ、国民的英雄だと評価されてい
たら、全く違った結果になっていたはずです”
チューリングは、激怒した。 研究所の上司に、意見書を提出する。
‘困難な問題を思考ではなく、多くの装置で解決しようとする’
‘全く、スマートでないやり方だ’
研究所の同僚が、まずはレベルを落とした現実的なパイロット版を製作しよう
と提案する。 だが、まるで、手を貸そうとはしなかった。
“レベルを下げてでも、試作機を作るというのは、賢明な考えです”
“しかし、チューリングが、やりたい事ではなかった”
“ハイスペックのコンピューターを作れる可能性があるのに、なぜ、そうしない
のか? 低レベルの試作機を作るなんて、時間の無駄だと思ったのでしょう”
“チューリングは、結局、チームプレーヤーではなかったのです”
チューリングは、どうしても、ハイスペックのコンピューターが欲しかった!
そのコンピューターに人間の脳の機能をプログラミングする事で、人工知能の
実現を目指していたのだ。
1947年。 チューリングは数学者の学会で、世界初とも言われる人工知能の
宣言を行う。 ‘我々が求めているのは、経験から学習する機械だ!’
その翌年、知能機械と題した論文を発表。
人間の脳をモデルにして、コンピューター上に神経細胞、ニューロンのネット
ワークを構築するというものだった。
チューリングは、人間の脳の中で、ニューロン同士が、接続と解除を繰り返し、
学習して行くという現象に着目する。
この現象を再現できれば、人間の脳が作れるはずだ!
チューリングをコンピューター科学の視点で研究する科学哲学者は、言う。
“脳の働きを機械的に捉えた、先駆的な発想です”
“現在この研究が巨額な資金を投入して進められていますが、彼は1948年に
既に、このアイデアを思い付いていたのです”
しかし、あまりに早すぎた研究は、理解されなかった。
論文を読んだ国立物理学研究所の上司は、こう言ったという。
‘まるで小学生の作文だ。 発表に値しない’