FC2トラックバックテーマ:「ついつい気になってしまう他人の行動は?」東京・大手町のオフィス街の一角で、写真撮影をする人たちが、ちらほら。
お目当ては、こちら! 渋沢栄一の銅像です。
2024年の、新しい1万円札の顔となる人物です。
そして… 2021年の大河ドラマ 晴天を衝け の主人公でもあります。
でも、あまりイメージが湧かない方も…。
“何か、漠然と、すごい方だっていう事は分かるんですけど…”
“細かなところは、ちょっと、よく分からないですね…”
渋沢栄一が気になるけど、そもそも、何をした人なのか? ぼんやり…。
そんな皆さん! 今回は、どんな人物だったのか? その凄さに納得です!
お札の顔に選ばれるほどの人物、渋沢栄一。
若い頃から、さぞ立派な人… と、思いきや、実に、山あり谷あり! まずは、
“彼は幕末のテロリストですからね!” なんと、江戸幕府を倒そうとします。
ところが…。 ‘我が一橋家に仕えぬか?’
その直後、幕府のトップ、将軍に仕えるという急展開!
“その本意を貫くためには、柔軟に、いろいろ適応していた”
人生の転機となったのは、フランス。
そこで目にした、ある仕組みに、心を奪われます。
“それは、民衆を豊かにする。 みんなが豊かになれる最大の方法であると”
大実業家への足がかりとなった、フランスでの体験とは…。
近代化へ踏み出した日本。
栄一は、国を豊かにするため、前例のない挑戦を始めます。 しかし…。
“何だ、これは! 日本の政府が、なぜ、敵になる?”
苦闘する栄一に、一体、何が?
波乱万丈の末、お札の顔に選ばれるほどの大人物となった、渋沢栄一。
日本経済の礎を築いた、その理想に迫ります。
渋沢栄一は、幕末から昭和にかけて活躍した、日本を代表する実業家で、
日本資本主義の父と呼ばれた人物です。
渋沢栄一が、創立や運営に関わった企業は、なんと、500!
医療や福祉、学校などの団体は、600に上ります!
中には、今も、栄一の理念を受け継ぐ会社があります。 (清水建設本社)
相談役を務めた大手建設会社に、社員達に語った言葉が残されていました。
‘新規に受注した大工事には、自然と注意が払われる’
‘しかし、日々の小さな工事こそ、注意を怠ってはならない’
大手建設会社の代表取締役社長は、言う。
“修繕工事のような小さな仕事でも、気を抜いて失敗すると、積み重ねて来た
信用が、一気に壊れてしまう”
“そういうものを、大事にして行かないといけないのだと…”
“特に若い社員には、この言葉の大切さ、この辺をしっかりとお話ししている”
現在も、社会のさまざまななところに影響を与え、新しいお札の顔ともなる
渋沢栄一。 まずは、始まりの青年時代から見て行きましょう!
埼玉県深谷市。 関東平野の一角、のどかな農村が、渋沢栄一の故郷です。
およそ180年前、栄一は、裕福な農家に生まれました。 (生家は現在も残る)
豊かさの理由は、当時、この地域で生産が盛んだった、あるもの。
こちらの、藍玉です。 布を青く染める染料・藍を、丸く固めたもの。
抗菌や防虫などの作用があり、布を長持ちさせる藍は、衣服などの生活
必需品に広く使われていました。
栄一の家は、藍の葉の栽培から、藍玉の加工・販売まで、大規模に行って
いました。 そのため…。
栄一は、幼い頃から読み書き・そろばんを習い、14歳で、商いに関わるように
なります。
本人が記した藍玉の販売記録からは信州の川中島や松代、上州の高崎など
遠方まで出向いた事が分かります。
若い頃から、見聞を広める機会に恵まれていたのです。
そんな栄一の、人となりが分かるものが、ふるさとに残されていました。
渋沢栄一記念館の学芸員は、言う。
“こちらは、渋沢栄一さんが作った版木になります”
16歳の頃に作ったという、相撲の番付表のようなもの。
藍の葉の生産農家を、大関から前頭まで並べてあります。
行司は、自分自身。 当時は、栄一郎と名乗っていました。
栄一は、この表を、宴会などで、農家が集まった時に配ったと、いいます。
でも、下の方に書かれた人は、面白くないですよね。
もちろん、狙いは、順位をつける事では、ありません。
まず、番付が上の農家に、栽培における自分の工夫を、話してもらいます。
それを聞いた、他の農家は、そこから学びつつ、発憤すれば、地域全体の
栽培技術が向上する。 そんな仕組みを、つくったのです。
“各、農家さんが、努力する事によって、いい藍が出来れば、その地域が、
大きく豊かになるという事で、皆さんの力を集結させて、そして更なる付加
価値を生み出し、みんなが豊かになるという考え方は、この藍玉番付から
分かるように、若き日の渋沢栄一の商才や経営理念に、つながっている”
番付表の翌年(1856年/安政3年)。
栄一に、大きな影響を与える出来事がありました。
父の代理として、潘の役人に呼ばれた時の事。
突然、お金を差し出すよう、命令されました。
金を用立てる側が、なぜ、頭を下げなければ、ならないのか?
栄一の心に、疑問が生まれました。
明治大学の教授は、言う。 “あれが、彼の、1つの原点ですよね”
“ただ侍というだけで、自分を虫けらのように扱うというのは、やはりこれは、
色々、突き詰めて行くと、世の中のシステムがおかしいのではないかという”
“武士だろうと、農民だろうと、能力ある人間が、能力を発揮して、社会の上に
立てるような、そういう社会でないと、これは間違っている”
“だから、今の社会は、おかしい! と、そういう風に考える”
江戸幕府を頂点とする当時の政治体制に対して不信の念を抱くようになった
栄一。 そこに、尊王攘夷(そんのうじょうい)の思想が、影響を与えます。
欧米列強に幕府は弱腰だ。 ならば、日本を天皇中心の国に変えて、外国と
戦おうという… 過激思想です。
栄一の故郷は、川や街道で江戸と結ばれ、丸1日あれば行き来できる場所。
栄一は、江戸で尊王攘夷を叫ぶ人々と、しきりに会うようになります。
そのころ関わった、過激な計画を伝える文書。
なんと、日本にいる外国人たちを、残らず征伐すべし、とあります。
同時に、幕府を倒す企てまで…。 若き栄一たちの、テロ計画です。
栄一は、江戸で買い付けた武器を、ふるさとへ運びました。
同志も、70人近く集めます。
1863(文久3)年11月。 会合で、計画内容を披露した、栄一。 ところが…。
‘暴挙だ! 烏合の衆が、兵を挙げたとて、何ができる!’
反対したのは、2つ年上のいとこ、尾高長七郎です。
“出来る、出来ないではありません!”
“国のために、我が身を捧げる事に、意味があるのです!”
“我々がしくじっても、必ずや、次に続く者が…”
‘ばかな! 田舎の百姓一揆と思われるが、せいぜいよ!’
既に、実際の尊王攘夷運動に身を投じていた長七郎には、栄一が無謀にしか
見えませんでした。
‘よし分かった!それなら、わしを殺せ!わしを殺して兵でも何でも挙げろ!’
ギリギリのところで計画を思いとどまった、栄一。
でも、こんな中途半端な状態で、将来、お札の顔になんて、なれるの?
商才あふれる農民として、あるいは、幕末の志士として、精力的に奔走した
若き日の渋沢栄一。 この後も、実に山あり谷ありの人生を送る事になります。
1864(元治元)年。 幕府打倒の企てが失敗した直後、栄一は、知り合いの
ツテで、有名な人物の家臣になります。 のちの将軍、一橋慶喜です。
家臣になったのは、幕府の追ってから逃れるため。
だからといって、徳川一門に仕えるとは、なんて大胆!
更に、最初の挨拶で、こう、言い放ちました。
“私の見ますところ、幕府の命脈は、既に尽きましてございます”
“一橋様には、よくよく、そこを、お考え下さい”
のち、将軍となる人物に、 幕府は先がない! と語る率直さ。
続けて述べた、人材登用に関する画期的な意見などもあり、慶喜から、
かえって信頼されるようになりました。
こうして、侍となった栄一の前に、新たな世界が広がりました。
そして、自分が進むべき道を、見い出して行きます。